この絵本に初めて出会ったのは小児科の待合室だった。当時、決して軽いとは言えない病気を患っていた4歳の娘を連れての通院が日課になっていたのだ。私の影響で猫が好きだった娘に読んでやろうかと何気なく手にとった絵本の表紙には、ふてぶてしいとらねこがでんと構えていた。
ページを開くと何度も死んでしまうとらねこ。娘もなんとなく微妙そうな顔をしている。どうやってオチをつけるのだろうかと心配しながら読み終えた。最後、生き返らなかったとらねこに温かさだけではない何かが心に湧き上がる。「なんだか変わったお話だったね?」と少しキョトンとしている娘を見ながら、確かに病院に置く本なのかと疑問も感じた。正直、ちょっとモヤモヤした読後感だったのだ。
しばらくして、仕事で絵本を読むことが増えて、とある本屋でこの絵本に再会した。なぜだか表紙のとらねこを見たらどうしてももう一度読みたくなって、すぐに買ってしまった。じっくり読み返してみると、いろいろなことが感じられた。大切なものを持つことと失うことの意味。生きることの目的。他者と心が通じ合う喜び。自分であることの誇り。けれどもこの話の主眼はそれだけなのだろうか? 白いねこに心を奪われたとき、とらねこは何かに負けて何かを失ったのではないか? けれども同時に初めて何かを知って初めて自分よりも大切なものを得ることができたのだ。トラネコは最後幸せだったのだろうか? 生き返らなかったのは生きることに満足したからなのか? 失うことの悲しさを二度と味わいたくないからなのか? 感動しながらその感動の所在がよくわからなかった。
それから何度もこの絵本を読んだ。読むたびに違った何かが見えてくる気がした。
世の中にはいろいろな絵本がある。いつも同じ感動を与えてくれる素晴らしい絵本がある。それは心の水面にできる寸分違わぬ美しい波紋のようなものだ。けれども、この絵本は少し違っていて、心にできる波紋がいつも同じとは限らない。自分の心の状態によって、精緻な波紋も、乱れた波紋も、時には大きなさざ波さえも起きることがある。きっとこの絵本は、波紋そのものではなく心に投げ込まれる石なのだ。だから人によって、自分の心の状態によって起きる心の波紋が毎回異なる。作者の言いたいことはこれなのだ、と簡単には説明できない。この絵本がここまで多くの人々に愛され読み続けられている一番の理由はここにあるのかもしれない。
まだ1回も生きおわっていない私は、その1回の間に百万回、は無理でもきっとあと百回はこの本を読むと思う。この人に懐くことのないふてぶてしいとらねこが本当に大好きなのだ。感動とか名作だとかの先入観なしに、是非とも一度はこのとらねこに会って欲しい。そしてそのとき生まれた心の波紋を覚えておいて欲しい。きっともう一度このとらねこの話を読み返したいと思う日が来るに違いないのだから。