子どもが小学生になった頃だったでしょうか。
学生時代の友達が手紙に書いてきたことがありました。
「○○ちゃんのお母さん」になって
”知り合い”は、いっぱいできたけど
”ともだち”は、なかなかできない。と。
その時、私は納得したけれど…。
『ともだち』―。
和田さんの挿絵の右端で語り掛ける谷川さんの言葉は
易しくてシンプルだけど
その言葉に
たしなめられたり、うなったり、苦笑いしたり。
それでは、あの人は、私のともだち?
私は、あの人のともだち?…と考える。
けれど終盤
挿絵が写真にかわり
車椅子の少年のまなざしに射すくめられたその後で
写真には重い現実が見えるけど
なにか人の持つ大きなやさしさが私を包みました。
「あったことが なくても このこは ともだち」に。
そして、ふいにうかんできたのは
震災直後のアメリカ軍による”トモダチ作戦”でした。
遠くに暮らしていても、会ったことがなくても
トモダチとして手を差し伸べてくれた人達。
直接、被災はしていなくても
日本人として
誰もが、その行動と思いに
心を動かされ、感謝しましたよね。
ともだちに、細かい条件や定義は要らなくて
相手を助けたい、力になりたいって思うだけでじゅうぶん。
それだけで、ともだち!
長く「○○ちゃんのお母さん」をやってきて
知り合えた多くの人たちの何人かは
確かに「ともだち」と、今、思えるのです。
会う機会もほとんどなくなってしまっても
「元気でいるかしら」と思いはせたら
それって、ともだち!
「そばにいないときにも いま どうしているかなって おもいだすひと」
ですもんね。