ホームランを打ったことがない。
たぶんホームランを打ったことのある人の方がうんと少ないのではないだろうか。
ホームランを打てる人の条件、まず野球をやったことがある人、バッティングにセンスがある人、相手投手の調子がよくない時、あるいは風の強さ。
だから、ホームランを打った人はとってもうれしいはずなのに、ちょっと照れくさい。笑いがこみあげてくるはずなのに、それを奥歯で噛みしめている。
でも、そんなことどもも、あくまでも想像。
だって、ホームランを打ったことがないのだから。
それは人生でもそうかもしれない。
ホームランを打てる人生なんてそうそうあるものではない。
長谷川集平さんの絵本はいつも何かを考えさせる。
大きなことのはずなのに、けっして声高に語るのでもない。絵も派手ではない。
静かに、大切なことを話しかけてくれる。
この絵本はホームランを打ったことのないルイ少年が町でかつて野球がうまかった仙吉にホームランの何事かを教えてもらう話だ。
仙吉は交通事故にあって野球ができなくなって、今はリハビリ中。
けれど、ルイにホームランの魅力をやさしく伝える。
仙吉は野球ができなくなったことを愚痴ることもしない。ただ、野球の素晴らしさを話し、ホームランの美しさを語るだけだ。
それでいて、静かに、だ。
仙吉を別れたルイはそのあとでゆっくりとバットを振り続ける仙吉の姿を見る。
仙吉がどうしてバットを振り続けるのかをルイは知っている。
ホームランを打つために、だ。
けれど、そのホームランは野球の世界だけのホームランだけではないことにルイは気づいたかもしれない。
そんなことを長谷川集平さんは声高にはいわない。
長谷川さんの文と絵で、読者である私たちがわかるだけだ。
ホームランを打つことは難しい。
でも、ホームランを打ったことのない悔しさとか寂しさとかはホームランを打ったことがない者だけがわかることではないだろうか。
そのことを大事にしているなんていえば、負け惜しみに聞こえるだろうか。