小さかった頃の記憶をたどってゆくと、どうやらわたしは初めからサンタは架空の人物として教えられていたように思います。
大好きだったアニメの主人公の魔法使いの少女は、片手をパチンと鳴らすだけで、簡単にサンタクロースとトナカイを空に飛ばせてしまいましたし、またあるアニメでは、最初から「サンタはいない」という前提のもとに、クリスマス放送分のお話を作っていました。…が、それらを見ても、すんなりと受け入れてしまい、疑問にも思わなかったのでした。
それでも子どもらしく、「いたらいいな」と思い続けていたらしいのですが、たしかあれは幼稚園のころ。
家にあった、父の古い歌本を見つけてぱらぱらと眺めていたわたしは、その中に「ママがサンタにキッスした」の歌詞を見つけました。そして、歌詞を読みながら、すべてを悟ってしまったのでした。
しかし。
しかし、です。子どもの「信じる力」、そして「願う力」というものには、おとなの想像を超えるものがあります。
そうやってサンタの真実を知ってしまってからも、なお、わたしはその存在が事実であることを願っていました。
イブの夜はいつもより早めにベッドに入り、静かに外の気配に耳を澄ませていました。
何も聞こえなくたって、よかったのです。期待をすることが、楽しかった。
それだけでこんなにどきどき、うきうきするのだから、もし、万が一、サンタの気配がしたら、どんなにかすばらしいことだろう…そんな気持ちでした。
息をひそめて外の気配に耳を澄ましていたあのころ。
少年「ぼく」の姿に、わたしはいつのまにか自分の子ども時代を重ね合わせてしまいました。
どの子も、きっと信じる気持ちは同じ。願う気持ちも同じ。
だから、いろいろなものが見えるのです。いろいろなものが聞こえてくるのです。
少年の耳にはサンタの橇の鈴の音の代わりに「北極号」のしゅうしゅう言う蒸気の音が聞こえ、バレエが上手になりたいと朝な夕な山に星に願う女の子には、山の靴屋がバレエシューズをプレゼントしてくれる(安房直子「うさぎのくれたバレエシューズ」)。
テニスンの詩のように、「五感をあたため」、自然と、そして目に見えないすべての気配と、折り合いよくやっている子どもには、願いを叶える、言葉では説明のできない不思議な力が宿っているんじゃないかと思われてしまいます。
ひとことで言い表せるとすれば、「心の豊かさ」とでもなるのでしょうか。
純粋な。
何ぴとにも汚すことのできない、絶対的な力を秘めた豊かさ。
子どもにとって、その「力」を抱き続けることはとても簡単なことなのに、ある時ふと気づと、その力が失せてしまっているのは、いったいどうしたことでしょう。人によっては、力が失せてしまったことに気づかずに過ごしてしまう場合さえあるのです。
これが「おとなになること」?
いえいえ、そんなふうに決めつけてしまいたくはありません。
実際、わたしの知り合いの中には、50歳を過ぎてもちゃあんと鈴の音が聞こえているひとがいます。
要は、いつでもゆったりと構えて信念を貫き通すことなのかもしれません。
願えば、「力」は維持できるのです。そして、信じていれば。
急行「北極号」は、「力」に満ちた子どもたちを乗せて、北極点へと向かいます。そしてそこで、選ばれたひとりの子どもが、サンタクロースから「クリスマスプレゼントの第一号」を手渡されるのです。選ばれた子ども…「ぼく」が希望したプレゼントは、サンタの橇についている銀の鈴でした。
パステルで描かれた幻想的な光景。北極号の窓から、建物の窓から、そして月夜の山肌から放たれる、神秘的な光の描写。
あなたにも、鈴の音が聞こえるでしょうか。
だれであっても、いくつになっても、信じていれば、きっと、聞こえますとも。