翻訳者が小説家ということであれば、それがたとえ絵本であれ、小説家は絵本につけられた文章が気にいったのだと思いがちだ。
そういうこともあるにちがいないが、この絵本に限っていてば、翻訳者の村上春樹はショートストーリー程度の文字数をもった文章が「極端に言ってしまえば、字が一字もなくてもこの絵本は成立してしまう」とまで、「あとがき」に書いている。
もし、字が一字もなくなれば、翻訳者は必要なのだろうか。
村上春樹は翻訳者としての自身の存在さえ消えてしまっていいと言っているのに等しい。
それくらい、村上春樹はC.V.オールズバーグの絵に魅了されたということだ。
表紙の折り返しにニューヨーク・タイムズの批評が掲載されている。
その中で、「浮揚するイメージはマグリットのそれに匹敵する」とある。
マグリットというのは、20世紀を代表するシュルレアリスム画家のルネ・マグリットのことだ。
空に浮かぶ巨大な岩とか、鳩のからだに青空が浮かびあがる絵とか、誰もが一度はマグリットの作品を目にしたことがあるにちがいない。
ニューヨーク・タイムズはC.V.オールズバーグの絵がそのマグリットと同じくらいの価値をもっているというのだ。
たしかにC.V.オールズバーグの絵の巧すぎる絵にはなんともいえない肌ざわりがある。
落ちつかない色づかいといっていいかもしれない。
ましてや、この作品では海に浮かぶべきヨットが空に浮かぶのだという。
そういう空中でのありさまが、巧すぎる絵全体を不安にさせているといっていい。
そして、その不安感、それは重心のなさともいえる、は現代社会に生きる私たちの心のありようだともいえる。
村上春樹は「オールズバーグの絵は我々にひとつの風景を示すと同時に、その風景を通じて我々自身の心の扉を内側に向けて押し開いている」と書いている。
そういう絵がもたらすものに村上春樹が共鳴したとすれば、村上春樹の作品もまた「心の扉が内側に」開くことを目論んではいないだろうか。