10歳のカリプソは、5年前にママが急逝してから「人に頼らず、心を強く持って生きろ」と言うパパと二人暮らし。亡ママの部屋を自分だけの図書室にし、友人を作らず本を心の支えにしてきた。校正を生業とし、レモンについての本を執筆しているパパは、家事に無頓着で、最低限の家事は彼女がしていた。本好きな転校生メイと意気投合し、物語を共同執筆し始めるが、両親と弟のいるメイの家に遊びに行くたび、カリプソは、自分の家との違いの大きさに気づいていく。カリプソがはじめてメイを自分の家へ招待した日、パパは不在で、彼の書斎の本棚にあるべき亡ママの遺品である本はすべてなくなって、代わりにおびただしい数のレモンが入っていた。
自覚なくヤングケアラーとなっていた少女が、パパとともに、周囲の助けを得て喪失感と向き合い、人とのつながりの大切さに気づいていく物語。
*******ここからはネタバレ*******
ママの急逝と前後して、なぜパパが、レモンに関心を持ったのかは私の読解力では読み取れませんでしたが、著者がレモンを取り上げたのは、そこに欠陥品や困難の意味が含まれているからでしょう。次作の「Jelly(邦題「秘密のノート」)」が、不安の象徴だったのと同じです。
エピローグで、みんなで仲良くレモネードを飲むシーンで上がりというわけですね。
愛した人を失った悲しみが大きすぎて、人とのつながりを恐れるようになってしまったパパが、娘にもそれを要求する。悲しみを抑えるために感情に封をし、その結果、喜びや楽しさを感じることも減っていく。
人とのつながりを排除してひたすら「強さ」を求めるパパが、実は一番弱い存在だったという、大人実に情けない物語です。
カリプソが争い事を目にしたくない理由がわかりませんでした。両親は良好な関係だったでしょうし、あのパパなら彼女に声を荒げることもなかったでしょうから。
メイの両親の懐の大きさに驚かされます。カリプソの家と対比するために描かれているのでしょうが、いくら娘の親友だからって、それで壊れた家庭のパパの面倒まで見られるものではありません。
ただ、カーテンにする生地を選んでと渡した布を汚してしまったとき、「これはママのお気に入りの一枚で、なにか特別なものをつくるときのためにとってあったの。もうもとにはもどらない」とがっかりする場面。いや、それならはじめから、カーテン地にしてもいいわけじゃなかったんじゃん、と思いましたよ。
レモン置き場となったパパの書斎で、腐ったレモンを投げつけたり、物置の裏に置き去りにされていた遺品の本を救い出して、カビで黒くなっていたものを書斎で乾かしたり、いいんですけど、カビは体に良くないから、特に1階の日当たりの悪いパパの部屋に置いておくと、パパの健康がますます損なわれてしまうかも知れませんよ。
パパの様子がおかしいと気づいたカリプソとメイが、では「正常」とはなにか調べる場面があります。少数派は異常なのか?がんで死ぬ人は正常なのか?正しい判断基準はないのか?そのうちに心理学用語としての「正常」に行き当たりますが、これだとDSMにまで話が行ってしまいますね。彼女のパパの場合は、ちょっとした疲れのようにも見えますが、<大人を世話する子どもの会>で、カウンセリングを受け続けるととことん落ち込んでいくと言われるところは気になります。カウンセリング手法がおかしいんじゃないのかな?
原作の表紙絵は、レモンの木の下で本を読んでいる絵。この作品の右上に突き出ている腕が持っている花は何なんだろう?レモンの花でもタンポポでも、メイの家の庭のバラでもないですよね。読み逃したのか?私にはわかりませんでした。
主人公は10歳。でも、こんな不安定に崩壊した家庭の話は、中学年の子にはきつすぎるのではないかと思います。しっかりした高学年以上にオススメします。