●『わたしのワンピース』は最初、まったく注目されない絵本でした。
───リトグラフで作った作品が、日本版画協会展の賞を受賞し、さらに出版社から「絵本を作りましょう」と依頼が来たことも本の中で詳しく書かれていて、読み応えがありました。
正確には、当時、こぐま社に出入りしていた画家の油野誠一さんが、こぐま社の社長、佐藤さんに私の絵をオススメしてくれたそうなんです。私は私で、絵本を描こうと考えていたけれど、こんなに早くお声がかかるなんて思わなかったから「あら、もう来ちゃったわ」って思いました(笑)。でも、とても嬉しくて、こぐま社の門戸を叩いたの。
その頃のこぐま社は設立2年目で、日本の子どもの為に新しい絵本を生み出そうという熱気にあふれていたの。私にたくさんの美しい絵本を見せてくれて「書きたいテーマでいっぱい絵を描いて持っていらっしゃい」と言うのよ。そこで、うちに帰って、家にあった裁縫箱の道具やボタンの絵を描いたの。
そうしたら、なかむらしげおさんが文章を書いてくれて、『ボタンのくに』という絵本になりました。1冊目はなんだかあっという間にできてしまったという感じだったのよね。
───デビュー作『ボタンのくに』ができたときのことを「とても恥ずかしい本であった。」と書かれていますよね。
何しろ、お話をいただいてから3ヶ月くらいで作っちゃった作品だったし、本の形になったときに、自分の作品がどう見えるかとかも考えられず、無我夢中で描き上げた絵だったのですもの。当時は、本屋さんで自分の絵本が並んでいるのを見るのも恥ずかしくてできませんでした。今になって見るとね、あ、若い頃のエネルギーはすごいなって、素直に見られるようになったのよ。そこまで至るのに、30年も40年もかかっていますからね。
───西巻さんの中で、作品に対する恥ずかしさがなくなって、満足できる絵本を描けるようになったのは、いつぐらいでしたか?
はっきりと覚えていないですけど、2冊目の『まこちゃんのおたんじょうび』(こぐま社)で、ある程度、自分がやりたいと思う、おはなしができたように思います。でも、絵には全然満足していませんでした。だから、3冊目は「絵本なのだから絵で語る本を、まだ誰も作ったことのない、絵によってぺージがめくりたくなるような本を作りたい」と思ったの。それが『わたしのワンピース』(こぐま社)でした。
───今でこそ、『わたしのワンピース』を読んでいない子どもを探す方が難しいくらい、ロングセラーの絵本ですが、出版して何年かは全く評価されなかったというのが意外でした。
最初にこれはいい本ねって言ってくれたのはね、私が友達のように仲良くしていた女性。それと、福音館書店の編集長の松居直さんからも「いい本ができましたね」というお葉書をいただきました。でも、それだけ。その後、はじめて注目されたのは、5、6年経たころに、朝日新聞の子どもの本の紹介コラムに東京子ども図書館の方が、子どもが次から次へと借りにきて、図書館の本棚にいつもない本だということで、『わたしのワンピース』を紹介してくださったんです。
───「子どもたちが評価してくれたのが一番うれしい」とエッセイにも書かれています。やはり『わたしのワンピース』が西巻さんの絵本作りの方向性を決めるターニングポイントとなった作品なのでしょうか?
そうですね。いろいろ絵本の依頼をされるようになったのも、『わたしのワンピース』が出てからでした。でも、私の中で最初に絵本を出してくれたこぐま社への恩があったから、自作の絵本はこぐま社で、ほかの出版社の仕事は、別の方の原稿に絵を描くという感じで、仕事を分けていました。
───なるほど。こぐま社以外でのお仕事の最初は、神沢利子さんが文章を手がけた『はけたよ はけたよ』(作:神沢利子 出版社:偕成社)。たくさん絵本の依頼が来る中で、どの作品に絵を描きたいかなど、ご自身の中で決まりがあったのでしょうか?
ありがたいことに、『はけたよ はけたよ』をはじめ、ご提案いただく作品のプロットがどれも良くできていて、描きたいと思うものばかりだったから、ほとんどお断りすることなく、お仕事をさせていただきました。自分で文も絵も描く作品と、文章をいただいて描く作品の違いは、文章をいただく方が、絵だけに集中できるということね。
───絵も文章も描く場合、どのくらい時間がかかるものなのでしょうか?
オリジナルはアイディアを考えている時間が一番長いのね。私はいつもクロッキーノートにいたずら描きをしながら、「こうなるかしら? ああなるかしら?」って、ずっと考えているの。アイディアさえ出てくれば、絵は1ヵ月もあればできてしまうんですけどね。でも、ちょうど子育てをしていた70年代に、オリジナルだけでない絵本の仕事をたくさんできたのは、私にとってとてもありがたいことだったと思います。