人間の大人の論理で切られてしまったいちょうの木。大人になってしまった私には、どの大人の気持ちもわかるので、しかたないねえ、と感じてしまいます。どこにも悪意があったわけではないのですから。幼稚園の先生達、木を切りに来た人々は(木のプロフェッショナルであるだけになおさら)、りっぱな木を切るのがつらかったのではないかと思います。
子供達からすれば、その周りに集い、遊び、心のよりどころともなっていたいちょうが切られてしまうのは、なんとも悲しいことだったでしょう。去年のぎんなんから、いちょうの木を育てようと思いついた時には、心が明るいなったに違いありません。あの子達は、命を大切にするということを、それこそ、身を切られるような体験を通して学んだのですね。
それにしても、人里で生きにくくなっている木のなんと多いことでしょう。私たちの住む町にも、新築のマンションの壁に沿って枝が払われてしまった木、バス停が出来てしまったために切られてしまいそうな木、新築の家の庭の片隅に無惨な形でようやく残されている木・・・いろいろあります。