8月6日、いつもの朝だったはずなのに・・・今までになかった爆弾によって、その未来を断たれた広島二中生徒全員の、その悲惨な記録。
私は昭和30年に生まれました。「戦争を知らない子供たち」なんて歌っていたけれど、何のことはない、戦争が終わってたった10年しか経っていません。
子どもの頃には戦争で怪我をされた傷痍軍人たちの姿はよく見かけました。軍歌を唄う大人たちはたくさんいました。そりゃそうだ。私が生まれたのは、戦争が終わってたった10年なんですから。
もし、この本の少年たちが生きていたとすればまだ83歳です。私と23歳しか変わらない。
この少年たちは、あの日を境に13歳の命を終えて、それから10年後に生まれた私は、60歳になりました。
私は戦後わずか10年で生まれたのです。
この本は、広島テレビが昭和44年秋に制作したテレビドラマの草稿をもとに書かれたものです。その時の様子を当時のプロデユーサーだった薄田純一郎氏が「あとがき」に書いています。構成を松山善三氏が、朗読を女優の杉村春子さんが務めたそうです。
番組は多くの視聴者の涙をよび、その年の芸術祭優秀賞を受賞しています。
描かれたのは、昭和20年8月6日の広島。原爆が投下された日。この日、広島二中の一年生321人と4人の先生は空襲の備えた家の取り壊しあとの片付け作業を行うため、広島本川の土手に朝集合していました。
そこに原爆が投下されたのです。
多くの学生、といってもまだ子どもですが、遺体もわからないまま亡くなりました。なんとか家にたどりついた学生もいます。しかし、誰一人助かった子どもはいませんでした。
ある子どもは友だちの名前をいって亡くなりました。また、ある子は、母さんといって亡くなりました。ある子は「天皇陛下万歳」といって亡くなりました。
その子どもたちには、もっとたくさんの命の日々があったはずです。
けれど、その死の消息さえわからないままの子どもたちがたくさんいます。
そんな子どもたちを救ってあげられなかったと嘆く父母。子どもたちを見つけてあがれなかったと慟哭する家族。
広島二中の子どもたちを慰霊する「碑(いしぶみ)」に込めた思い。石のようにそれは強固に未来まで風化させてはなりません。
本に載った、あの日の子どもたちの写真は、あの日がなければ、どこかですれ違っていたかもしれない人たちだと思うと、今、生かされている意味をしっかりと掴まないといけないと思うのです。 (夏の雨さん 60代・パパ )
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