最初にぱっと目に飛び込んでくる赤い丸。いつまでも見ていられるほど鮮やかで美しい赤、そして正確な丸。それがこの絵本の主人公。それ以外は白地に細い黒い線で描かれており、字はありません。
子どもがふくらませると、それは赤いふうせんとなり。大きくなると、その口を離れて空へ飛んでいきます。やがてそれは高い木の枝に成っているりんごへと変化し、枝を離れると、少しずつ形を変え、いつの間にかちょうちょになり。ひらひらと飛んでいるうちに今度は花となって大地に根付き。
ページをめくるたびに、変化するその姿。風に吹かれたり、自分で飛んでいったり、人の手で運ばれたりしながら、常にどこかへ向かって進んでいき。やがてまた子どもの手の中に戻ってくると……。
字はないけれど、いつまでも読んでいられるのは、そこに明解な物語があるからでしょうか。それとも目が惹きつけられているのでしょうか。年齢に関係なく、その感覚で味わってもらいたいイエラ・マリの傑作絵本です。
(磯崎園子 絵本ナビ編集長)
『あかいふうせん』と字のない絵本(渡辺茂男さんによる解説) おおむかし、わたしたち人類の祖先は、ことばも、まんぞくにしゃべらず、もちろん、文字などなかった時代に、洞穴のかべに絵をかきました。はじめは、狩りがうまくいくように、神さまにおねがいするために、野牛とか熊とか、そのほかの野獣だけの絵をかきました。 この絵をはじめてみた後世の人間は、野獣の力強いさまに感心しましたが、何のために1匹ずつの動物が描かれていたのか、その意味はわかりませんでした。 そのつぎに、野獣と向かい合って斧や弓矢をかまえている人間も絵の中にはいりました。 この洞穴画を見た後世の人間は、すぐにそれが狩りの絵だとわかりました。 これは、絵がそれを見る人に情況を知らせ、何かを語っていたからです。 字のない絵本は、まず絵になる考えと着想がなければ生まれません。つぎに、その着想の展開、つまり構成がたいせつです。形と色と表情で、はじめに何かが始まることをにおわせ、そして、つづくページを開くと、前のページとつながりながら、前のページとはちがう新しいできごとが展開し、それが流れとリズムをもって、クライマックスに読者を導いていかなければなりません。途中で、流れが切れてしまったり、意味のわからない場面があったりすると、そこに、それを説明することばがないだけに、読者は、ついていかれません。その逆に、全体の構成が、あまりにも陳腐で、わかりきった子どもだましであれば、読者は、くりかえし見ようとはしません。 イエラ・マリの『あかいふうせん』は、何回見ても、息をのむほど新鮮で、ため息のでるほど、あかぬけした、心のはずむ傑作です。(児童文学者)
文字のない絵本です。
物語を想像して、自分の好きなように想像を膨らませることが出来ます
とても鮮明な赤ですが、赤い風船かいろんな形に変化していきます。
赤い風船の行方がとても気になってどんどん惹かれていきました。
シンプルですが、開くつどに想像が広がって素敵な絵本だと思いました (押し寿司さん 60代・じいじ・ばあば )
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