自分が揖斐川の上流で生まれたから、自分にとってとても意味深い作品に巡り会えたと感じます。
岐阜の言葉(揖斐地方の)、揖斐川下流の風土、土地の風土、郷土の思想、それぞれが自分にいろいろなものを伝えてくれました。
上流から流されてきた青年。
失明し、記憶を失って「あほろく」と呼ばれるようになります。
とてもかわいそうな存在なのですが、最初は憐れんだ村人も厄介者、蔑むものとして青年の存在を切り捨てていきます。
村という組織のエゴでしょうか。
自分はそこまでの思いはないけれど、都市化されない村組織は閉鎖的であるには違いありません。
その中にはエゴイズムも、どろどろした人間関係もないわけではない。
しかし、そんな村を否定するべきものかというと、そうでは決してない。
村人も自分たちのために一生懸命。
それは自己中心的ではなく、村中心的なエゴなのでした。
大雨が降れば氾濫する川。
その意味もこの絵本で説明しています。
徳川時代の政策に縛られていたのですね。
おばあさんと働くときには、自分の一部を取り戻した「あほろく」でした。
どんな生活をしてきたのでしょうか。
さりげなく書かれる方言の柔らかさをとても懐かしく感じました。
おばあさんが亡くなって、村人は「あほろく」に川だいこの役を与えました。
氾濫の多い地方だけに、話の展開は村人にとっては切実。
「あほろく」にとっては、仲間でいられるための課題だったのです。
それだから一生懸命だった「あほろく」は洪水に流され、必死の思いの村人はその「あほろく」を省みることなく逃げ出します。
人間だれもがそうではないけれど、そうなるかもしれない存在だと感じます。
重い重いテーマでした。
そして、揖斐川の上流を愛した自分にとって、徳山ダムを含め、開発と都市化はこの地方に何をもたらしたのか、考えさせられる話でした。
(そこまで考えると読み聞かせできないので、あくまで物語の悲しさを聴き手と共有することをお薦めします)