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やさいだけではなく
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投稿日:2015/05/03 |
オオカミはいうまでもなく肉食動物です。
それでも、この絵本のように、肉食をやめて、草食に宗旨変えする人(オオカミですが)もいます。
名前は「ウルフ」さん。
ウルフさんが肉食をやめてやさいを作ろうとしたのには、理由があります。
人(オオカミですが)が自分の性向を変えようとするのは、きっかけがあります。そのきっかけが大きいほど、変化は有効かもしれません。
ウルフさんのように。
ウルフさんの場合、冬になんのえさ(その頃は肉食ですから動物たちです)もとれずに、ひもじい思いをしたことがきっかけになりました。
「いまのままじゃ、だめだ」とやさい畑をつくることにしたのです。
オオカミにとっては一大決心です。
だから、周りの動物たちも興味深げに見ています。
どこかでオオカミの本性に戻るんじゃないかって。でも、ウルフさんはまじめにやさい畑で働きました。
そして、ウルフさんのやさい畑にはトマト、カボチャ、えんどうまめなどたくさんのやさいが実をつけました。
絵本ですから、収穫までの時間ははぶかれています。
本当はやさい作りはがまんと辛抱なんですよね。
だって、種を蒔いたからといって、次の日に実がなるわけではありません。
もし、この絵本を子どもたちと一緒に読むことがあったら、そのことを教えてあげて下さい。
ウルフさんは毎日精を出して働いたということを。
そうすると、ある日、やさい畑を荒らされてウルフさんの気持ちがもっとよくわかるかと思います。
この時が、ウルフさんの肉食動物に戻る一番あぶない瞬間でした。
しかし、ウルフさんは辛抱します。
もっといい方法でやさい畑を荒らすのはよくないと気づかせる方法を見つけたのです。
それは、「育てる」ということの意味でした。
はたけを荒らした動物たちにやさいの種を持ってこさせて、ウルフさんは許します。
種が育つにはたくさんの時間が必要です。
ウルフさんが森の動物たちと仲良くなるのも時間が必要だったのです。
「ウルフさんのやさい畑」はそんな大事なことを教えてくれる、畑になりました。
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大阪弁では「まねしごんぼ」
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投稿日:2015/04/26 |
私が育った大阪・岸和田では、「まねしんぼう」のことを「まねしごんぼ」と言った。
調べると、関西のほかの地域でもそう呼んでいたようで、うれしくなった。
「まねしごんぼ、まねしごんぼ」と揶揄するように使っていたように記憶している。
さしずめ、みやにしたつやのこの絵本でいえば、「ぼくのいもうとはまねしごんぼなんだよ」ということになるのだろう。
開いたページの左側に、「ぼく」。右側にまねしんぼうの「いもうと」。
その真似がちょっとどこかおかしいのが、ユーモラスに描かれている絵本。
例えば、最初の真似は「ジャンプ」。
「ぼく」が跳び上がっても、真似をする「いもうと」は全然跳び上がれない。
「ぼく」が「おしっこ」とトイレにいくと、真似をする「いもうと」はおむつの中におしっこをしてしまう。
そんな兄妹の光景が、なんとも微笑ましい。
きっとお兄ちゃんの「ぼく」からすると、真似ばかりする「いもうと」が鬱陶しいにちがいない。
それでも、「さんぽにいってくる」という「ぼく」に、「おさんぽいってくる」と真似しながら、兄の手をぎゅっとにぎってくる「いもうと」がかわいくないはずがない。
ユーモラスな「いもうと」の「まねしんぼう」の姿を描きながら、みやにしはなんとも微笑ましい兄妹の姿を描いている。
そこにみやにしの観察の素晴らしさを発見する。
頭でだけでは描かない世界といっていい。
みやにしの私生活は知らないが、どこかで兄弟(あるいはこの絵本のように兄妹だったかもしれないが)のそんな光景を目にしたのであろう。
絵本だからといって、すべてが絵本作家の頭の中にあるわけではない。
その作品のきっかけになるようなことを、作者は目にし、それを膨らませていったのではないだろうか。
こういう絵本を読むと、兄弟(それは姉妹かもしれないし、この絵本のように兄妹かもしれないし、姉弟かもしれないが)は悪くないと思う。
きょうだいがいることで、多くのことを学ぶことがあるのだろう。
もちろん、時には嫌なこともあることを、三人兄弟の次男坊である私は知ってもいるが。
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本は私たちの、ずっと友だち。
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投稿日:2015/04/19 |
新学期が始まって、まだまだ新しい友だちにもなれないという人も多いと思います。
新入生の人であれば、職員室とか音楽室の場所を覚えるだけでも大変かも。
図書室はどこにあるか、調べてみましたか?
学校には図書室といって、たくさんの本が並んでいる部屋があります。街の図書館もいいけれど、せっかく学校に通うのですから、学校の図書室の場所くらいは覚えましょう。
そこに行くと、たくさんの本が並んでいると思います。
私たちは生まれた時から本がありますから、そのことに何の疑問も感じないですが、大昔には今のような本はありませんでした。
じゃあ、本はどのようにして出来たのか。
この絵本はそのことを教えてくれます。
タイトルに「カエサルくん」とありますが、紀元前の英雄です。
「シーザー」と呼ばれることもあります。
ある日学校の図書室で本を借りようとしていたしょうた君が取り出した本から、突然飛び出してきたのが「カエサルくん」だったのです。
「カエサルくん」はしょうた君に本のことをあれこれ教えてあげようと、本の中から飛び出したのです。
「カエサルくん」は、「本が、今の冊子の形になるまでには。長い長い物語があるのじゃよ」と、しょうた君に話しかけてきました。
どうして、本ができたのか。
「カエサルくん」はこんなことを言っています。
「たいせつなことを正確にずっと先まで伝えたい」、そういう思いが文字を生み出し、本となったというのです。
「カエサルくん」の話の途中に印刷術を発明したグーテンベルグさんとか冊子の本を完成させたアルドゥスさんが登場します。
「カエサルくん」もそうですが、この二人のことも詳しく知りたくなれば、学校の図書室に行って調べるといい。
もし、知らべ方がわからなかったら、司書という先生がいるだろうから、聞いてみよう。
本から飛び出した3人は現代の電子書籍のことまで話をしています。
学校の図書室に電子書籍があることはまだ少ないでしょうが、いずれ何年かしたらそういう時代も来ると思います。
どのような形であれ、本は私たちの、ずっと友だち。
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私もうんとおおきくなりましたが
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投稿日:2015/04/05 |
金子みすゞの詩に「もしも、母さんが叱らなきや、咲いたさくらのあの枝へ、ちよいとのぼつてみたいのよ。」で始まる「さくらの木」という作品があります。
「もしも誰かがみつけなきゃ、ちょいとのぼつてみたいのよ。」で、終わります。
春になって、ちょっと楽しい気持ちに弾む女の子の心情がわかる、詩です。
春が来て、この女の子も少しだけ大きくなったのでしょう。
この絵本にも、金子みすゞの詩のようなくだりがあります。
「おおきくなるっていうことは まえよりたかいところにのぼれるってこと」。
文は保育士の経験もある中川ひろたかさん。
この文章には大きな松の木を高い枝に腰かけている男の子の絵がついています。
絵は村上康成さん。この絵本全体がやさしいのは、村上さんの絵の魅力も大きい。
ページをめくると、こうあります。
「おおきくなるっていうことは たかいところからとびられるってこと」。
もちろん、村上さんの絵は、高い木から飛び降りている男の子です。
でも、「おおきくなるっていうことは」それだけでは、ありません。
次のページで、中川さんはこう綴っています。
「とびおりてもだいじょうぶかどうか かんがえられるってことも おおきくなるっていうこと」。
金子みすゞの詩の女の子も、「もしも誰かがみつけなきゃ」さくらの木にのぼりたいと思ってはいますが、そうはしない。
のぼらなくても、彼女は遠い町のようすが見えるだけ、大きくなっているのです。
人は毎年ひとつずつ大きくなります。
背丈が伸びるのは若い時だけですが、生きていくという経験が人をいつまでも大きくします。
中川さんは、こう結んでいます。
「おおきくなるっていうことは じぶんよりちいさいひとがおおきくなるってこと」「おおきくなるっていうことは ちいさなひとにやさしくなれるってこと」。
幼稚園でしょうか、やさしそうな園長先生が子どもたちにそう話しかけています。
でも、それは子どもたちだけではありません。
みんながみんな、「おおきくなるっていうことは」、どういうことかを考えるということです。
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豊年だ! 豊年だ!
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投稿日:2015/03/29 |
『暗夜行路』といえば、志賀直哉の長編小説ですが、読む機会を逸したままでいます。
読んでいないのですが、主人公の青年が女の乳房を触りながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ場面があることだけは知っています。
有名な場面だけど、読んでもいない小説の、そこだけ覚えているというのも何だか。
みやにしたつやの絵本に『おっぱい』という作品があります。その表紙には、どーんとおっぱいが描かれています。
その続編のようなこの絵本の表紙にもおっぱいがどーん。
志賀直哉の小説の主人公であれば、まちがいなく、「豊年だ! 豊年だ!」って叫ぶんでしょうね。
まだ小さい弟がおかあさんのおっぱいを「ふくふく」とさわっています。
お兄ちゃんの目線で、描かれている絵本です。
昼には「ぺたぺた」、お風呂では「ぴちゃぴちゃ」、夜には「すべすべ」、弟はいつだっておかあさんのおっぱいを一人占め。
「もみもみ」「ぷくぷく」「ちゅうちゅう」「ぷるるん」。
たくさんの擬音で、言葉でもおっぱいを表現しています。
それくらい、この絵本にはおっぱいがたくさん描かれています。
そういう時代はとうに過ぎましたが、うらやましく思うのは、男の性(さが)でしょうか。
「ときどきは ぼくのものだよ」と、おかあさんの胸(ここではおっぱいではないです)に手をあてるお兄ちゃんの気持ち、よくわかります。
でも、不思議なのが、この絵本にはおとうさんが登場しないのです。
おとうさんが子どもたちの姿をもっとうらやましく見ていたら、もっと微笑ましかったかも。
でも、子どもたちにこの絵本を読んであげていると、「どうしておとうさん、おっぱいが欲しそうなの」と聞かれて困るかもしれませんよね。
まさか、子どもたちに志賀直哉の『暗夜行路』の「豊年だ! 豊年だ!」なんていう話できませんもの。
でも、案外そのことがきっかけで、子どもたちが読書家になることだってあるかも。
やっぱり、それはないか。
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この絵本に流れる静謐な時間
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投稿日:2015/03/22 |
絵本制作の現場を知らない。
例えば、絵本作家と呼ばれる人であれば、文も絵も一人で担当して一冊の絵本を造る。
では、文と絵が別々の作家だと、どういう割り振りになるのだろう。
文を担当する書き手が文章だけを書き、書かれた文章にイメージを膨らませて絵を担当する絵描きが描いていくのだろうか。
あるいは、文を担当した書き手が絵描きにここにはこういう絵を描いて欲しいとお願いをするのだろうか。
この絵本の場合、文を担当しているのは、短歌界の新しい波を築いて、現代短歌の第一人者でもある穂村弘さん。絵は、自身絵本作家として多くの絵本を造り、本の装丁にも多くの作品を提供している酒井駒子さん。
そんな二人が一冊の絵本を造ったのだから、どんな風にして出来上がったのか興味が尽きない。
何しろこの絵本には、「しーん」「カチッ」「はっ」「ちゃぽん」「「みつあみちゃん」」、これだけの言葉しかない。
文を書いたのは穂村弘さんであるのは間違いないが、これだけで酒井駒子さんが絵をイメージしたのだろうか。
例えば、「しーん」には、花の蜜を吸う紋白蝶が描かれている場面が2枚。もう1枚は、その花から飛び去る紋白蝶が描かれている。
一方は「しーん」の三文字、対する絵描きは3枚の絵を描く。
これは読者としての私の推測だが、穂村さんと酒井さんは何度も打ち合わせをしたのではないだろうか。
「しーん」という言葉に込めた意味を穂村さんが酒井さんに説明する。酒井さんが最初の図柄を描く。穂村さんがこういうのはどうだろうと提案する。酒井さんが、それではと描き直す。
そういう工程があって、「しーん」に紋白蝶が描かれたのではないだろうか。
あくまでも、絵本制作の現場を知らない読者の思いではあるが。
穂村さんがこうして欲しいと譲らなかったのは、最後の「「みつあみちゃん」」という言葉の絵だと思う。
この絵本のタイトルが「まばたき」とあるように、「みつあみちゃん」がたった3枚の絵で老婆に変わるのは、「まばたき」をするだけのわずかな時間。
穂村さんはそれだけは譲らなかったのではないでしょうか。
なんとも奥深い絵本だ。
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かおるちゃんが待っててくれた
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投稿日:2015/03/16 |
1954年(昭和29年)に封切りされた映画「ゴジラ」は大ヒットとなり、翌年にはその続編が作られています。
題して、「ゴジラの逆襲」。
この時のゴジラは1作目のゴジラとは別の個体として設定されていて、新たにアンギラスという怪獣と戦っています。
つまり、一度は人間の叡智によって退治されるゴジラですが、再び日本を襲ってくるというので「逆襲」と付けられたのでしょう。
長谷川集平さんの絵本『トリゴラス』は退治をされたわけではないのですが、再び登場するということで「逆襲」と付けられています。
『トリゴラス』の出版が1978年、そしてその続編であるこの絵本が刊行されたのが2010年。実に32年の歳月を経て、続編が発表されたということになります。
ある夜、大きな風の音を聞いた少年は「トリゴラス」が町にやってきたことに気づきます。
そして、「トリゴラス」は少年の大好きなかおるちゃんを連れ去って去っていきます。
ここまでが、最初の絵本のお話。
そして、ここからが続編の絵本のお話になります。
また別の夜、少年は大きな風の音を聞きます。「トリゴラス」だということを少年はすぐに気づきます。
今度はなんと少年の家に「トリゴラス」がやってきて、少年をかおるちゃんの時のように連れ去るのです。
「トリゴラス」が向かったのは、遠い南の島。
なんとそこには、かおるちゃんがいるではありませんか。
しかも、続編のかおるちゃんはすごく色っぽくなっています。
かおるちゃんは少年にこう告げます。
「これね、わたしのゆめのなかなの」。
ええーっ、かおるちゃんがそんなこと言っていいのでしょうか。
「あなたといつかこうしてふたりきりになりたかった。」なんて。
かおるちゃんの夢ではなく、少年の夢です。
少年の夢ですから、少年は色っぽいかおるちゃんをどうしてもいいのですが、町が「トリゴラス」の襲われていることを思って、こんなことではいけないとかおるちゃんには何もできません。
長谷川修平さんは32年ぶりに「トリゴラス」の続編を描いて、結局少年の性を開花させることはしませんでした。
「ゴジラ」シリーズでは第3作めでキングコングと対決するのですが、果たして少年の欲望はキングコング化するのでしょうか。
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追悼・タラス・テイラーさん − バーバパパは永遠です
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投稿日:2015/03/08 |
なんとも懐かしい絵本です。私の娘たちと一緒に読んだ絵本。あれから何年経ったでしょ。(具体的な年の数をいったら、娘たちに叱られそうです)
娘たちが大好きだったバーバパパ。ピンクの大きなおばけです。
娘たちが小さい頃に「スライム」という奇妙なおもちゃがありました。ちょっとどろどろして、なんにでも形を変える、化学的な粘土のような遊び道具。きっと子供はそういう何にでも姿を変えられるものが楽しくてしようがないのにちがいありません。
バーバパパもそうです。長いシリーズのはじまりとなるこの巻では、姿を変えることで火事からたくさんの人を助けたり、動物園から逃げ出したひょうをつかまえたり、バーバパパは大活躍します。子供たちがいつの時代であってもバーバパパを大好きなのは、そういう変わる力をもっているからかもしれません。
子供だって同じです。あれになりたい、これもしてみたい。どんどん心は変化していきます。そのような子供の心に寄り添っているから、バーバパパの絵本は長く愛されてきたのです。
それにバーバパパという名前の絶妙感。子供たちが主人公の名前を呼ぶたびに、お父さんの気持ちはくすぐられたのではないでしょうか。
この絵本、今でも多くの子供たちに愛されています。
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おっぱいがいっぱい
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投稿日:2015/03/01 |
「おっぱい」なんて、いつから口にしていないのだろう。
吸っていたとか飲んでいたとかではなく、「おっぱい」という言葉をである。
成長すれば、「乳房」とか「バスト」とかに変わってしまう。
「おっぱい」の語源を調べると、いくつかの説があるらしい。
その一つが、「おおうまい」という言葉から来たというもの。お母さんのお乳はそんなにうまかっただろうか。ちっとも覚えていない。
別の説に、「お腹いっぱい」が変化してとある。確かに母親のお乳をごくごくを飲んでいた子どもたちを見ていると、お腹いっぱいになれば、泣くこともおさまる。
いずれにしても、「おっぱい」を口に、言葉にですよ。できる年齢はほんのわずかだ。
それは、とっても幸福な時間だ。
みやにしたつやさんのこの絵本は、ズバリ『おっぱい』というタイトルがついている。
成長して「おっぱい」と書けるのは、絵本作家の特典のようなものだ。
お母さんのおっぱいに吸っている赤ちゃんの幸せそうな絵が、表紙だ。
うらやましい。
母乳で育てられたはずだが、こういうことは全然覚えていない。
幸福な時間は記憶に残らない。残念だが。
おっぱいを吸うのは、人間だけではない。
象もねずみもゴリラもぶたもそうだ。
みやにしさんはまず動物たちの授乳の姿を描いて、そのあとにドーンとお母さんのおっぱいを大写しで描く。
りっぱなおっぱいだ。
次のページにはそのおっぱいをじっと見つめる男の子。
ここは女の子ではなく、やはり男の子がいい。
女の子だっておっぱいを吸ったはずだが、ここは男の子。このあたりは微妙なのだけれど。
男の子は、こんなことを思う。
「おおきく、やさしく、つよく、げんきなこにしてくれた ぼくのだいすきなおっぱい」。
これは男の子だから、言える。
大人になってこんなことは言えない。
これも、絵本作家の特典だ。
男の子にはまだ小さい弟がいて、今は弟がお母さんのおっぱいにしがみついている。
それを男の子は「かしてあげ」ていると思っている。
でも、きっとそのおっぱいは永遠に男の子のところには戻ってこないのだ。
「おっぱい」と口にしなくなるように。
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女の子が苦手?!
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投稿日:2015/02/22 |
本好きな人にはいつも机にかじりついて本ばかり読んでいる、不健康なイメージがどうもあるようです。
かけっこをさせたらいつもビリ、鉄棒なんて大嫌い。野球をしても三振ばかりで、もう嫌だ。
やっぱり本を読んでいる方がいい。
実際にはそんなことはないと思うのですが、どうでしょう。
ダニエル・カークの人気シリーズ「としょかんねずみ」の3冊めとなるこの絵本を読むと、やはり本好きな人(この絵本ではねずみですが)は、やはり運動が苦手なんだろうかと、苦笑が浮かびます。
今までの作品で、図書館に住んでいるねずみのサムが素晴らしい文才を発揮して人間たちを驚かせてきましたが、この作品ではサムの怖がりの一面が描かれています。
ある晩、いつものように誰もいない図書館でサムは大好きな冒険の本に夢中になっていました。気分はさしずめ冒険家。
そこになんと図書館の大きな書棚のてっぺんから一匹のねずみが舞い降りてきました。
まさか自分以外に図書館にねずみが住んでいるなんて。
しかも、ピンクのスカートをはいた女の子ねずみです。
名前はサラ。
女の子といっても、サラはサムよりうんと活発です。自分のことを探検家というぐらいですから。
サムとサラは友だちになりますが、どうも雲行きが怪しい。
サラはいろいろなところを見て回ろうとします。
でも、サムはすべては本に書かれていると反論します。
そしてとうとうサラはサムにこういうのです。
「サム、あなた、こわいんじゃないの?」。
さすがに女の子にそこまでいわれて、サムもあとにはひけなくなります。
図書館の高い書棚のてっぺんまで登ることになります。
でも、その時のサムの顔ったら。なんとも情けない。
気の弱い男の子に気の強い女の子が、「しっかりしなさいよ」と背中をどんと叩かれているような感じです。
図書館の隅々までなんとかサラと一緒に探検をして疲れてベッドに戻ったサムはこうつぶやきます。
「ほんを よんだり かいたりするのも、たんけんするのと おなじことさ」。
本当にそうなのでしょうか。
サムには誤解があるようです。
本はたくさんのことを教えてくれますが、本当の世界はもっと、うんと広いのです。
サラはそのことをサムに教えてくれているのです。
これから二匹の仲はどうなっていくのでしょうか。
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